”ふん・にょう”について語るのはいかにも難しい。

第一、このものを表現するのに、どういう言葉を使ったらいいのかに、はなはだ苦しむ。そこでまず、どんな単語があるのか列挙することになるのだが、ふんについていうと、「糞」「クソ」「フン」「大便」「うんこ」「うんな」「うんち」「ばば」等があり、にょうには「尿」「小便」「小用」「小水」「ションベン」「オシッコ」「シシ」「シーシー」「しと」などがあるのはすぐわかろう。この際、方言や隠語、さらにはかしこきあたりで使用する言語は一般性がないので省略する。また、これに「お」をつけたりつけなかったりするのは、各位のお好み次第である。

主観を排除したいわゆる科学的な文章などでは、「排泄物」なる言葉で一括して片づけこんな危険な表現とはさっさと遠ざかるのが一般的であるが、エッセイなどとなると、読者に不快感を抱かせずに具体感を示唆し、さらにこのものにまつわる人間や社会の滑稽感やユーモアを添えなくてはモチィーフが生きず、表現がはるかに複雑になる。そうなると、どうしても「うんこ」「おしっこ」の類の言葉あたりに落ちつくのである。

そんなことをうつらうつら考えてゆくうち、ハタと思い至ったことがある。

開高健がセックスとともにふんにょうについて一方ならぬ関心を抱き、これらに「雲固」「御疾呼」なる漢字をあてて縦横に駆使し(ついでに追加しておくと、オナラは御鳴楽である)、空前にしておそらく絶後ともいうべき卓抜な小説やルポを連発したのは衆知のとおりであるが、これらの作品が、作家の死後なお読者を感動させ喝采を博しつづけているゆえんの一つは、かかる読みにかかる漢字をあてがった彼の語感の天才にもあった、ということである。彼はおそらく、深夜ひそかに、ああでもない、こうでもないとウンコ、ウンコ、オシッコ、オシッコなどとつぶやき、様々な漢字あてがって書いては消し、消しては書いて、その字のもつ視覚、連想の交響に頭を悩まし、胃袋に穴があくほど懊悩したのにちがいない。いや、そうであってもらいたい。

ところが、開高と仲がよかった丸谷才一は、ある文中で、こんな言葉はきらいだとこの用語を一蹴している。好き嫌いは自由だからどうでもいいが、愚老按ずるに、丸谷がきらいなのはこういう言葉の使い方なんかではなく、排泄物などにからまる褻(け)の領域そのものを嫌悪していたのではなかろうか。

医者とくに大衆相手の開業医は職業がら医学的リアリズムに慣れすぎていて露骨かつ率直なのが多く、人がいやがる排泄や生殖などについても平気で口にする者が多いのだが(そうでなくちゃ、商売がやっていけない)、こういう医者になるのがいやな医者の子どもは、こんな親父に辟易している者が少なくない。開業医の息子であった丸谷にも、こういう傾向がなくもなさそうである。これに対抗して開高は、これもある文中で、丸谷は上品ぶってるのだとからかっているが、文豪巨匠のこのやりとりは、短いながら両者の本質をチラリとかいまみさせてちょっとした見ものである。

閑話休題(それはさて措き)。

しかし、人はさまざま。じつに様々である。糞尿という顰蹙をかうことがらに興味をもち、それをひそかにあるいは公然とひけらかし、調査し研究し、口で語り、あるいは文章にまでして人間社会に一大貢献をはかる人たちもいるのである。この領域は一口にスキャトロジー(糞便学ないし糞便嗜好)と称されるが、この言葉が包含するところ、文学、歴史、社会学、建築学、工学、民族学、医学などと底が知れないくらい深く、広い。ましてや便器ともなるとそれ自体が一大産業であり、下水道やその水の処理などともなれば、大予算を要する喫緊の社会問題となる。

便通は個人の健康にとっても一大問題であるが、社会がふんづまりや下痢をおこせば、そんな社会は崩壊すらしかねない。かつて谷崎潤一郎は、女人はお尻から出たものについてなど考えてもらいたくないといかにも耽美派らしい言葉を吐いたが、耽美派などクソでもくらえだ。われら人間は、この肉体と精神というまことに厄介至極なものを抱えて餌を求め、それをしこたま排泄して、毎日を生きねばならぬ宿命にある。それも70年、80年という長丁場をだ。その坩堝、修羅場が人間社会というものなのであれば、その宿命が凝縮したふんにょうの世界をこそ、我々はシカと見据えて生きねばならない。

とまあ、そんな次第で、以下に私がこれまでに目をさらしてきたスキャトロジーに関する本や記事を紹介する。そこに多少の感想をつけ加えておいたが、もちろん批評などという大それたものではない。著者としては漫文として扱ってもらえればもっけの幸いなのであるが、そんな洒落た文章を書く能がないことも本人はよく承知しているので、この歯医者よほどヒマなのだろうと思っていただければ結構である。(以下、各論につづく)