(お父上。尻を拭くのは、なんといっても鵞鳥の子の首を股ぐらに挟んでやるのに限ります。)

文学史上のスキャトロジーの鼻祖はなんといってもフランソワ・ラブレーFrancois Rabelaisだろうが、ここまで話を大きくすると、私ごときはあまりにも浅学非才、どうにも手に負えなくなる。

私の語学力は英語が多少、ドイツ語は医学用語は別として新聞雑誌は読めず、いわばホンのとば口程度。ラテン語は解剖学の骨や筋肉、神経の学名が読めるくらい。漢文は散文はおろか、詩ですら字面を眺めて理解する程度、イタリア語は曲がりなりに発音できるだけ(これは歌曲のレッスンで身につけた)だが、文章は全く読めない。フランス語となるとすべてチンプンカンプンで、単語の理解も発音も全く出来ない。そのくせフランスやイタリアが大好きで、一年に一回くらいはパリやローマをウロウロしないと鬱屈してくるという物好きである。そんな訳で、ラブレーと言ったって、私の知識は全部が東大仏文科教授だった渡辺一夫の翻訳が頼みである。

ラブレーの研究家だった渡辺一夫が、戦前戦後の疾風怒濤の時代、本郷真砂町の古いお屋敷の書斎に垂れ込めて糞尿譚の訳に没頭し、尻尾嘗麿之守とか透屁嗅正之守とかの訳語の案出に精根を傾け、ついに雲谷斉(うんこくさい)と号し、”幽々自擲”と洒落れるまでにいたった精神の背景を憶測すると鬼気せまるものを感じるのは私ひとりではあるまい。彼はこれを敗残者のダジャレと戯称しているようであるが、そこからは彼の人間に対する一種の諦念のごときものが立ちのぼってくる。

(若き日の渡辺の姿が、中島健蔵の「回想の文学(1) 疾風怒濤の巻」(平凡社)に鮮やかに記録されているだけに、そうした思いは特に深い。)
 この雲谷斉先生をひとかたならず尊敬していたのが開高健で、渡辺との対談「ラブレーを読む」は比類なき絶品である(午後の愉しみ・文藝春秋)。
 そのなかで、渡辺はこんなことを述べている。

「その糞尿譚では、ラブレーがよく使う言葉で「ボワヨー・キュリエ」というのがあるんですよ。解剖学的にいえば直腸のことなんでしょうが、ぼくは『糞袋』と訳すんです。そこでぼくがラブレーに一番打たれるのは、お前たちがどんなに高尚なことを言おうと、どんなに気取って深刻面をしようと、みな「糞袋」をもっている人間だということを忘れるなということを言っている点ですね。彼の作品は全体が、そのことのヴァリエションじゃないかと思うんです。神学者に対しても、宮廷の貴婦人に対しても、彼はそれをサチール(風刺)の物差しとしておりますね。カトリック教会に対しても、新教会に対しても、そんな無理をいってもだめですよ。人間は糞袋だといっているわけです。」

 温厚ながらその言たるやじつに痛烈。これぞ人文主義者、スキャトロジストの真骨頂と思われる。ちなみに、ラブレーは作家であったと同時に医者でもあったが、ここには医者特有の生活感情が濃厚に反映していると思われる。大金持ちで威張っていたって、どんなに美人として鼻を高くしていたって、病気になりゃみん俺たちのところにこなくちゃならなくなるのだよ。医者という奴は、深く隠していてもみなどこかでこんなヘンな優越感をもって暮らしているのである。なお、愚老の考按では、尻尾嘗麿之守は「しりをなめまのかみ」、透屁嗅正之守は「すかしっぺかぎまさのかみ」と訓むのが正しかろう。

では、その作品とは一体どのようなものであるのか、ここで実際に実物に当たってみることにしよう。なにしろ全作品は鬱然たる大長編なので、その入り口としてガルガンチュワ物語〈第1之書)からほんの少々。訳は勿論、渡辺一夫である。まず、尻を拭く妙法を考え出したガルガンチュワの優れた頭の働きを父なる王グラングゥジエが認めたことと題する第一之書ガルガンチュワ物語第十三章の一節。後に巨人王となるガルガンチュワがまだ幼少のみぎり、父王グラングジゥエが戦より凱旋した時、父王は侍女に向かって、留守の間、可愛い息子がどんな風に養育されているか、何よりも息子を小奇麗にまた清潔にしておいてくれたか、特に念をいれて問い質した。この質問を聞くや、ガルガンチュワは即座に、国中を探ねてみても、自分くらい清潔な男の子はいない、と答えた。この時、ガルガンチュワはわずか五歳だというのだから人を食っている。ここからが有名な一節になる。少し長いが、所々中略しつつ引用する。オペラ仕立てにすれば、ボーイソプラノとバリトンの掛け合いになる、といった趣である。

どうしてだね。(とグラングゥジエは言った。)

長い間の熱心な実験の結果、(略)僕は、今までなかったような、最も殿様らしい最も素敵な、最も具合のよいお尻の拭き方を発明しましたよ。

どういうのじゃ?(とグラングゥジエは言った。)

それは(略)、或る時、腰元の誰かの天鵞絨の小頭巾で拭いてみましたが、なかなかようございましたよ。何しろ、絹の柔らかさで、出口のところが、とてもよい気持ちでした。

またある時には、おなじ腰元の帽子を使ってみましたが、これもまた同じようでした。また或る時には、襟巻きでも拭きました。(略)

こういったやりとりが延々と続き、父王はやがて、なるほど左様か、なかでも何で尻を拭くのが一番よかったと思うかな、と問う。ガルガンチュワは答える。

僕は、秣(まぐさ)や麦藁や麻 や獣の抜け毛やら紙などでも、お尻を拭いてみました。しかしながら、

と彼は父王に次の一歌を奉る。これはアリアである。おそらく聴衆はゲラゲラ笑い出すだろうが。

かみなどできたなきしりをふくやつはいつもふぐりにかすのこすなり。

そしてさらに、まあ、うんこをする人たちに雪隠がどう申しているかをお聴きくだされい、といって次なるアリアを歌い出す。

雲谷斎よ、

びり之助よ、

ぶう兵衛よ、

糞まみ郎よ、

そなたのうんこが、

ぽたぽたと、

わしらの上に

まかれるわい。

臭太郎よ、

糞次郎よ、

たれ三郎よ。

聖アントワーヌ熱で焼かれてしまえ!

もし仮に

みんなの穴が

閉まっていれば、

尻は拭かずに退却じゃて!

さらに次の漢詩で寓される一節これはどうもアリアというわけには行かない。ぶつぶつ小声がつぶやくといったところだろうか。

先日脱糞痛感

未払臀部借財

同香而非同香

濛気芬々充満

何人許諾欣然

希携行我佳人

善哉善哉

欣然塞小用孔

野人常不習礼

佳人敢弄繊指

得探我峡間穴

善哉善哉

(これをどう読み下すかは読者の自由というふうに書かれているのがくせもで、訳者は意図せずにここで読者の熱意と学識を秤にかけているように私には思える。)そして、次の結語。

 しかし、結論といたしましては、産毛(うぶげ)のもやもやした鵞鳥の子にまさる尻拭きはないと判断し且つ主張する者であります。もっとも、その首を股倉に挟んでやるのが肝心です。これは、ぼくの名誉にかけてお信じ下さりませ。と申すのも、鵞鳥の雛の産毛の柔らかさと言い、そのほどよい加減の暖かさと言い、お尻の穴に、得も言われぬ心地よさをお感じになりましょうし、鳥の体の暖かさが、忽ち直腸(くそぶくろ)やその他の臓器にも伝わり、遂には心臓や脳味噌のあることろにまで達するからで御座います。そして、天の楽園におられる英雄や神たちの福楽は、ひとえに「鵞鳥の子で尻を拭かれることに由来する」のだと述べる。わが子の秀でた理解力と、俊鋭、霊妙、深遠かつ晴朗な判断力に狂喜した父王は、ついに一人の詭弁学大博士を招聘するに至り、彼にわが子の教育を任せて、様々の文典・礼記の類を勉学させることとなった、のだそうで、この章は終わりになる。
やがてカルガンチュワは大活躍することになるのだが、そのナンセンスぶりは、一貫して以上のようである。
なんでこれが命がけの大著作でいまだに大古典としてヨーロッパの知識人たちの尊崇の的となっているのかは、以下に掲げる各書をお読みになって各自ご判断なされるのがよろしかろう。とにかく、こういった本を読むと、ホリエモンのジャーナリズム批判発言に大騒ぎしているような今日できの日本のジャーナリストなど、まるでゴミクズのように思われてくることだけは請け合いである。(以下、次章)

ガルガンチュワ物語〈第1之書〉 ワイド版岩波文庫・フランソア ラブレー (著), 渡辺 一夫 (翻訳)

パンタグリュエル物語〈第2之書〉 ワイド版 岩波文庫・フランソア ラブレー (著),渡辺 一夫 (翻訳)

パンタグリュエル物語 第3之書 (2)岩波文庫 赤 502-3・ラブレー (著), 渡辺 一夫 (翻訳)

パンタグリュエル物語 第4之書 (3) 岩波文庫 赤 502-4・ラブレー (著), 渡辺 一夫(翻訳)

パンタグリュエル物語―ラブレー第5之書 ワイド版岩波文庫 (65)・ラブレー (著),渡辺 一夫

 一言追加。最後の第5之書は、渡辺の鑑定によれば、贋作の疑いが濃厚だということである。
尚、また一言追加。
最近日本人の女性研究者が、紙で拭く以前には、一体どのような物で尻が拭かれていたかについての実証的研究をまとめ 、「落とし紙以(斉藤たま著・論創社・2005年2月)と題する一書を発刊した。読書の楽しみは、こういう書物と出会うことにもある。これについては後ほど詳しくふれたい。尚なお追加しておくと、排泄行為に関しては、大江希望氏という方の「排泄行為論」という愉快かつ不可思議かつ博大なホームページがあったが、最近削除されたようである。氏の労作は、A4版で2センチくらいの厚さのコピーとなって私のに残っているが、ここに祕かに敬意を表しておく。