開高健の「ずばり東京」読むと、フランスの作家ルイ・セバスチャン・メルシェ(1740-1814)を想起せずにはいられない。メルシェ 十八世紀パリ生活誌(上)(下)・原宏訳編(岩波文庫)。
 ジャン・ジャック・ルソーの弟子だったというメ ルシェは、どういう動機からか、大革命前後のパリのそれこそいたる所を歩きまわり、そこで暮らす人々や風物の見聞記を書き残し、のちにそれが「タブロー・ド・パリ」と題して出版された。その総量は全12巻、1052章にも及ぶ厖大なものだそうであるが、各章は長短じつに様々、極端に短いものは、和訳の文庫本でたった11行などというものもある。そしてその文体はといえば、今どきの表現でいえば、エッセイというよりあらゆる装飾をはぎとったコラムに近いが、コラムという言葉には現代日本の読書界独特のニュアンスがあるので、ここではあくまで伝統的なニュアンスが濃いエッセイとして扱いたい。

 しかし、残念なことに、私たち日本の一般読書家が読めるのは、そのうちの約五分の一ほどにすぎない。前にもいったように、愚老はフランスが好きなくせにフランス語がまったくできない浅学者、仏文学について語る資格など全くないのだが、さいわい、原宏氏の名訳のおかげで、その一端を伺うことができるのが有り難い。氏の解説によれば、「十八世紀パリ生活誌」と題してここに上下二巻の文庫本に訳出された分量が、ちょうど原書の約五分の一ほどだというのだからそれに従うのである。

 中世から近世にかけてのパリについての文物を読むと、この大都会、当時から”花の都”と呼ばれて多くの人を魅惑する都市であったらしいが、その一方、糞尿と悪臭と泥んこまみれの、まるで肥だめをぶちまけたような都市でもあったらしい。辻 邦生によれば、古代ローマの支配下だったパリはルティティアと呼ばれていたが、その意味は「泥まみれ」という意味だったということだから、その汚穢ぶりの年期のはいりかたも一通りではない。この余波は今日にも及んでいるようで、パリ人はとかく排泄物には寛容のようである。

 パリをウロウロしていて、「ああ、いいなー」と思うことの一つは、子どもの目が悪戯っ子まるだしのようにキラキラしていることと、シテ島の真ん中あたりでも、大きな犬がノソノソ勝手に歩いていることである。したがって、そこらあたりには犬の糞がゴロゴロしており、たまに慣れない観光客が踏みつけてキャーキャーいうのがいるが、パリ人は「ウォッチ・ユア・ステップ」という言葉は英語にだってあるじゃないかという顔をしている。

パリ歩きにかけては年期を入れた開高健によると、パリの人通りのすくない路地や橋の下には、カレーライスが仮借なく一面に広がっていたそうであるが、セーヌの河岸をブラブラするのが好きな愚老も、もうそんなところまで探検する体力はなく、それに外国ではいつも老妻と腕を組んでウロつくことになっているので、これはまだ実見していない。

 何が汚いといって、人間の下痢便があたりに散乱しているくらい汚穢な見ものもない。馬糞や牛糞は、これに比べればものの数ではない。交通事情のよくないパリではさすがに観光馬車は見られないが、(それでも日によると、騎馬警官が連れ立って大通りをパカパカやっていることがある。これもいい眺めだね。)ウィーンでは盛んで、王宮前の馬車の溜まり場などまるで馬糞の肥だめである。これを馬が踏みつぶし、車が踏みつぶして舗装道路一面にひろがっているのは、建築物が壮麗だけに一種無残な光景だが、それても禁止にならないのは、こんなの昔と比べたらどうって事ないと思っているからにちがいない。臭いが人間のウンコほどくさくはないということもあろう。(愚老など、皇国の軍国少年だった頃は肥料にする馬糞あつめに年中かりだされたものだが、今だってその気になれば手づかみにだってできそうだ。)

 さてと、ついつい話がそれた。メルシェに戻ろう。

十八世紀パリ生活誌。このエッセイの魅力は、何といっても、当時のパリという頽廃した都やそこに棲息する金持ちや貧乏人に対する愛憎が痛切に描かれているところにあるのだが、同時に、便所や野糞、死体や墓場といった「ケ」の世界をも、はばかるところなく活写した点にある。(明治維新のはるか以前にこんな率直な表現の作品が出版されているのだから、後進国が先進国を凌ぐのはじつに容易なことではない。ただ、ため息が出るばかりである。) ためしにここでパラパラと頁をめくって当該する文章の見出しと、その中身を所々中略して紹介すると、次のようになる。訳はもちろん、原氏の名訳である。

腐った空気

市民は、祭日や日曜日に、田舎のきれいな空気を吸いたくなったとき、市門の外に足を踏み出すやいなや、たちまち、下肥その他の汚物から発散する悪臭に出会うのだが、(略)それは、汚泥をもう少し遠くまで運ぶだけの注意を払わないからだ。美しいプールヴアールも、臭気が鼻について楽しさも台無しになってしまう。都会人の毎日の労苦や、納めた税金のつぐないをつけてやろうという親心などいっこうにはたらかないのだ。(略)ほとんどすべての教会の中で、死体の臭気がする。そのため多くの人々が遠ざかって、もはや教会に足を踏み入れようとしない。(略)

それなのに、とメルシェは憤慨する。

[市内に埋葬されている]あの二万人の死体は、都の外に運び出されはしない。またかの[イノサン墓地]には、千年も昔から死人を埋葬してきたし、その哀れな屍がことごとく土になるのを待っている余裕はないのだ、などと考えてるうちに、次々といくつもの情景が浮かんできては想像力を苦しめるので、終いには、想像力もはたらかなくなる。(略)

汲み取り人はまた、糞便を市外に運んでいく面倒を省くために、明けがた方近くになると、それを下水や溝に流す。その恐るべき沈殿物は、道路沿いに、セーヌ川の方に向かってゆっくりと流れ、やがてその岸辺を汚染するのだが、そこでは水売りが朝バケツに水を汲み、その水を知らぬが仏のパリっ子が飲むはめになるのだ。

さらにもっと信じがたいことだが、若い外科医たちが、解剖の練習のために死体を盗み出したり、買い取ったりするが、その死体がずたずたに切り刻まれて、便所の穴に投げ捨てられることもよくあることだ。それで糞つぼを開けると、時に凶悪犯罪を連想させるようなおぞましい残骸を見つけて仰天することがある。(略) 汲み取り人にはますます仕事が恐ろしいものになるばかりだ。便所や下水溜めの悪臭のために、 汲み取り人が倒れ、死ぬことがある。つまり、生きている人間のほうが、もう死んでしまった人間よりもさらにもっと冒涜されているのである。おお、すてきな町よ。(一七八二年)

マンホールに入った労務者が、不潔なガスのために死ぬことは今の日本でも時々あるが、当時のパリの下水の物凄さはそんなものではない。これについては後ほど別章で触れることにしよう。(参照図)dorosarai.mura

次は墓場についてである。

閉ざされた墓地

人口のもっとも多い街区にあるイノサン墓地には、年に三千人近くの死体が収められる(略)。そこにはフィリップ美貌王[一二八五-一三一四年]以来の死者が埋葬されてきた。少なくとも一千万人の死体が狭い場所で分解してきたのである。何というるつぼだ!(以下、略)(一七八八年)

この一文には、消毒のためこの墓場をほじくりかえす一場面が出てくるが、ためし読んでごらんあれ。日本文学でこんな描写に出くわしたことは、愚老には一度もない。そもそも日本には、こういう無残な現実を直視する冷徹、強靱 な精神が欠けているのではないだろうか。これは、ひょっとすると民族的な欠陥かもしれない。次いでこんな一節が出てくる。

便所

  便所の四分の三は、不潔で、恐ろしく、胸がむかつくようだ。パリっ子は、この点で視覚も嗅覚も、不潔さにはなれっこになっているのだ。建築家は、(略)行き当たりばったりに配管をとりつけてきた。便所が階段桟敷のようにたがいに積み重ねられ、(略)台所のすぐそばでこの上もない悪臭を八方に発散している光景ほど、外国人を驚かせるものはまたとあるまい。

 あまりに細すぎる管はすぐつまってしまうが、それを通すことをしないので、糞便が円柱状に堆積し、便座の近くまできている。つまりすぎた配管は破れ、汚物が家中にあふれ、悪臭がひろがる。それでも誰ひとり逃げ出す者はいない。パリっ子の鼻は、こういうひどい逆境に慣れきっているのだ。

 自分の健康を大切にする人なら、便所と呼ばれるこの穴の中に、決してほかほかの糞をたらしてはならない。肛門を開いてあの悪臭をきわめる気流に向かって差し出してはならない。そんなことをするぐらいなら、そこに口をもっていくほうがまだましだ。というのは胃酸が悪気をいくぶん和らげるからだ。(略)子供たちはそうそう悪臭ふんぷんたる穴をこわがる。地獄の入り口だと思っているのだ。(略)農民は幸いなるかなだ! 彼らは太陽の下でしか用をたさない。それでさわやかで健康なのだ。(以下、略)(一七八八年)

次は公衆便所である。

公衆便所

 町には公衆便所というものがない。人通りの多い街路で、生理的要求に迫られたとき、人々はとても困惑する。〔便所を貸してくれる家をさがすため〕 戸口をいろいろと当たっているうちに、何も取ろうとしていないのに、泥棒と間違えられるのがおちだ。

 むかしテュイルリーの庭園や王宮は、一般人の入れる場所だった。いちいの生垣の影には、大便をたれている男がずらりと並んで、そこで生理的要求を鎮めていたものだ。戸外でこうした排泄作用を行うことに快感を覚える人々がいるので、テュイルリー庭園の築山は、そこから発散する悪臭のために近寄れたものではなかった。アンジヴィエ伯爵が、そこのいちいの木を取り払ったので、わざわざ遠くからやってきた大便男は途方にくれることになった。

この部分には、番兵と向き合って並んでノグソをたれている紳士諸君の面白い挿絵が一枚挟まっている。テュイルリー王宮の跡地は、今はだだっ広い公園になっているが、その築山があったのは、どのあたりだったのだろうか。先年、この近所の、リボリ通りを挟んでルーブルと対面しているレジーナというホテルに一週間宿泊したとき、手がかりを求めてウロウロ散策してみたが、全く想像がつかなかった。何でも要領よく手配してくれるコンセルジュも、勿論、 こんなことまでは知るはずがない。さて、ノグソをたれる勇気のある奴はいいが、そんな勇気を持ち合わせていない男はどうするのか。ここでいささか心配になるが、この頃のバリジャンたちには公徳心などカケラもなかったようで、そんな場合は、次の仕儀となる。

  そんなときうす暗い露地門にかけこみ、事をすませて、逃げ出していく者もあれば、車除けの石の片隅で、公衆の顰蹙をかう者もいる。なかには 馬車や人力車を利用する者もいる。車の座席をおまる代りにしてしまうのだ。まだ我慢できる連中は前こごみの姿勢で川岸へと駈けてゆく。

かくて、セーヌの川岸には、開高健が橋の下で見たような、カレーの花があたり一面満開となるわけだが、メルシェはここから調子を一変させて、医者に対して厳しい要求をつきつける。とにかく医者たる者、まず、この一帯をよく見て歩けというのである。

その一帯を散歩するのは、おそらくもっぱら医者の務めだろう。医者にとって、川岸は今流行の病気を知るための真の体温計となるのではあるまいか。胃が変調をきたすのは一年のうち、どの季節なのかが、医者に分かるにちがいない。そうなれば少なくとも、公共の不潔さも、転じて観察の天才の利益となろう。だが、医者たちは傲慢になっていて、もはやおまるなど覗きこまないし、尿の検査をする人々を馬鹿にしさえする。都の川岸に、長い間にわたって書きこまれ、さまざまな症状の特徴があますところなく示されている新知識を、尊大な態度で無視している。(略)悪疫の真の例証を眼前にすることができるのに、医者ときたら図書館に行っては、ほこりをかぶった本をめくっている。

 医者のはしくれとして、これには愚老もいささか恥じねばなるまいて。医者には確かにそういう傲慢さがある。医者は何により患者から学ばねばならないのにだ。しかし、だ。「糞袋」という1995年に出版された日本の小説(藤田雅矢・新潮社)には、江戸時代の中期、将軍吉宗の時代に、京都先斗町の女郎衆のおひねり(糞)をなめたり、お小水を飲んだりするのを日課のようにしているケッタイな一群の旦那衆のことがでてくる。これを毎日宅配して歩く商売人までいたというのだから、あいた口がふさがらない。そしてこれには日本で初めて人体解剖を行った山脇東洋も関係して登場してくるのだから、医者のはしくれとして、こういう本は無視できない。

技、神に入るというが、この小説の主人公のイチなる男は、数十年斯道に精進したあげく、仕舞にはウンコの臭いを嗅いだだけでその者の身体状況から心理状態まで、手にとるように理解できるようになったというのだから、メルシェがこれを読んだら何というだろう。バカバカ、わしはそういうウソ話は嫌いなのだと一蹴して終わりになるかもしれないが、それにしても、この本、糞尿譚もここまでやるかというような内容のものであり、また、この小説の出来ばえには愚老にも多少の意見があるので、改めて別章で触れることに致そうか。次は 屠殺場である。

畜殺場(ブーシュリー)

畜殺場は、市外や町はずれにあるのではなく、中心部にある。血が街路を流れ、君の足元で固まり、君の靴は朱に染まる。通りがかりにとつぜん、憐れみを乞うような牛の鳴き声にどきりとする。(略)重い棍棒が頭を打ち砕き、大刀が喉笛を深くえぐる。血煙を立てて、生命とともに血がどっと流れる。(略)むき出しになった心臓が、むごたらしくぴくぴく動いているのを見るがよい。目が曇り、力を失ってゆくのを見るがよい。(略)誰が人間のためにやられるこの被造物の苦痛の吐息に耳を傾けていることができようか。(略)

 彼ら(引用者注・ 屠殺人)の顔と体液は、殺戮で流す血に活気づくようだ。野卑で猛々しい肉欲が彼らの特色であり、死体の臭気の発散する畜殺場の近くには、いやしい売笑婦たちが、まっ昼間から(略)堂々と放蕩の誘いをかけてくる通りがある。(略)厚化粧の雌ども、怪物じみたいやらしい物体は、(略)牝牛の目より冷たい目をしている。しかし、それが、あの血まみれの男たちにとっては、好感のもてる美人なのであり、このパシパエたちの腕の中に官能の悦楽を求めに出かけるのである。(一七八二年)

こんな具合に引用していけば、それこそキリがない。特に乞食や娼婦について書かれたものは、現在でもそのまま通用しそうである(尤も、野暮天の愚老には、娼婦と遊んだ経験は皆無だがな)。愚老がパリで何よりびっくりしたのは乞食であるが、真冬の夜の吹きっさらしの歩道でダンボールも敷かず、フテくされたように寝っころがっていながら、素手でしっかり缶からを握り、喜捨を待つ奴がいた。パリの真冬で、しかも素手だぜ。歩行者は、その素手を踏まぬように足早に避けて通っていたが、心の弱い日本人など、これを見ただけで一日中悩むことになりそうだ。さて、最後に下水道について書かれたくだりを引用しておこう。

公共下水道

  ローマの栄華はとりわけ、市民の健康と生活に必要な、かの施設〔公共下水道〕に刻印されている。造営官は主として下水道維持の責任を負い、この点に関して何らかの過失を犯した者をすべて処罰した。パリには「テュルゴー下水道」と呼ばれる大下水道があるが、それはテュルゴーがパリ市長をしていたときに、命令して造らせたからである。 (中略)

  後の世に、レ・ミゼラブルを書いたビクトル・ユーゴーが、この下水道にジャン・バルジャンをもぐり込ませることになるのだが、その際、ユーゴーは、パリの下水道について長文を割いて熱弁を奮い、メルシェのこのくだりに言及している。だが、それについて語るのは、別稿にしよう。

  このかなり広くて深い下水道は、ふたがしてなかったので、労働者が修理のために仕事をするのもたいへん容易であった。貯水槽とポンプを使って清掃が行われていた。汚物を洗い流すためには数ミュイ〔一ミュイは十八ヘクトリットル〕の水で十分だった。

しかし、ここから事情は頗る複雑になり、パリ市民は下水をめぐってとんだ災厄を抱え込むことになる。なぜなら、この下水にふたがされ、その地面が売りに出されたからである。

  この下水道用地を売りに出すことが、市当局の御意にかなったので、それにふたをしてしまい、その上に家をたてることが許可されてしまった。もっとも台所と便所からの排水を流しこむことは禁止するだけの予防措置は講じてあった。(略)そんな予防措置を講じても何もならなかった。これは明らかに悪臭の発生源を隠すことになった。

かくしてパリには惨憺たる状況が出現することになる。至る箇所で下水から汚水汚物が逆流し、パリ中が糞尿まみれになったのである。何とかならぬものか。メルシェは最後の希望を化学者に託す。

  (略)願いがかなわぬならせめて現代の化学者を頼りにしてみようではないかないか。何しろ化学者たちは、人命に危険のあるどんな毒気もものとしないし、(略)芸人が綱の上で曲芸をしてみせるのとおなじ自信をもって、身を賭して便所の穴のなかに下りていってくれるのだから。(一七八三年)

  当時のメルシェは、その後、この都市でおこった下水事情の、いわば近代化については勿論知る由もないのだが、我々は、この模様について、後世の歴史学者が詳細を記録してくれているを読むことができるのが幸いである。何しろメルシェがこのエッセイを書いたのは、フランス大革命が起こる六年前なのである。

文献

十八世紀パリ生活誌--タブロー・ド・パリ--
メルシェ 著
原 宏 訳編
岩波文庫