竹針の手回し蓄音機に耳を傾けてうっとりとしたのをはじまりとするなら、私のオーディオ遍歴も、もう60年以上ということになる。まことに今昔の感に堪えないが、78回転が45回転となり、それが33回転1/3のLPになったときの衝撃は、いまだに忘れられない。
  その頃はちょうど私の受験期のまっさかりで、ちびちびと小遣いを溜めてはレコード屋に通って買い込んだエディット・ピアフのシャンソンそのほか、心を奪うものは何もかも無理やり頭から放逐して悪戦苦闘。やっと大学に進んだ時には、もうレコードの世界は一変していた。音楽好きの憧れの的であった「電蓄」という、まことに心を奪うような言葉は既に意味を失ってしまっていて、ハイファイという鮮烈な言葉がそれに取って代わっていた。そしてそのハイファイというものたるや、78回転レコードでは聴いたこともない微妙な音響を発する装置だったのである。
 そのうちそれがステレオというシステムになった。
NHKの第一放送と第二のラジオを2台並べると、オーケストラがその間に広がって聞こえるという「立体放送」が最先端の技術となり、あれあれという間にそれがFMステレオに移行すると、やがてステレオのオープンリールテープやレコードが販売されるようになったのあるが、垂涎の的であったそうしたしろものは、とても私のような貧乏学生の手に負えるような価格のものではなかった。
  当時、私と同じ下宿に司法修習生になりたての人がいて、この人が日曜日になると我々貧乏学生を部屋に集め、毎週のようにLPを聴かせてくれた(その頃は、まだモノラルだった)。この人は高級のハイファイをもっているのがよほど得意だったのにちがいない。ところが困った事に、法科の人たちは多弁な人が多い。この人も黙って聴かせてくれればよいものを、アレコレと講釈を並べ、そのあげく、努力すれば諸君だって今にこういうものが買えるようになるというのが何とも耳障りだったが、そんな障害をものともせずに、ハイフェッツのヴァイオリンやルービンシュタインのピアノは、じかに私の心を撃ってきた。私が十九歳からはたちにかけての頃、つまり昭和31、2年のことである。
 その後様々のことがあったが、やっと卒業してめでたく歯科医師となり、経済的に若干の余裕ができたとき、私がまっ先に購入したのがステレオである。いま思えば何ともちゃちな装置でしかなかったが、干上がった大地をうるおす慈雨の如く、これで聴いたショパンのピアノコンチェルト第一番は少々大げさにいえば私の人生における一大事件であったといえる。

 剣豪作家といわれる五味康祐氏に「天の声-西方の音-」(新潮社)という作品があるのを知っている人は、相当オーディオに入れ込んだ者にちがいない。先日、20年ぶりくらいにこの本を読み返してみて、あらためて身につまされる思いを禁ずることができなかったが、それでも五味氏はまだよかったとも思う。何しろその後CDやDVDというものができて、これまでにさんざ散財したテープやLPが全部役にたたなくなるという一大変革を知らずに亡くなられたからである。
 私の場合でいえば、女房の渋面もものかは、あれこれと装置を買い換え、スピーカーもついに巨大なタンノイをしつらえるまでにいたったが、最後に部屋の遮音や音響効果の問題が残り、この不満を解消するために使った費用は、私程度の経済力の者にとっては、それこそロールスロイスを買うくらいの消費であった。女房がいまだに恩に着せるのも無理はない。それなのに、ああ、なんたる事か。そうしてやっと気に入った音が出た途端、もう音で苦労するのはつくづくいやだという気持ちが強くなり、それと同時にシューベルトを自分の声で歌いたいという思いが募って、ついに芸大の講師をしておられた声楽の先生に弟子入りをし、声楽を発声の基礎から習うというバカなまねまでした。
 下手なヴァイオリンの稽古は、鋸の目立てのような音で周囲に迷惑をかけるが、女房にいわせれば、下手な声楽の迷惑は到底そんなものではすまないという。上の子供などはまだこの時の事をよく覚えていて、私はお父さんの豚が悲鳴をあげるような声が恥ずかしくて近所の人に会うのがどうにもいやだったといまだに恨み言をいわれるありさまである。この苦行は3年ほど続いたが、不幸にも、懇切にレッスンを続けてくださった先生が突然自殺をなさるという悲劇に見舞われ、そのショックからこの趣味をはなれた。かくして、哀れわがステレオも、埃をかぶったまま20数年がすぎたのである。本学(群馬大学)第一生理学教室の松本政雄先生の門下生仲間の先輩で、当時ピアノをならっていた婦人科医の間中はるゑ女史(故人)と「声楽とピアノで合同コンサートをしようよ。あたしは赤いドレスを着るからね、あんたは燕尾服を着てさ」「いいですねぇ、是非やりましょう」などとはしゃぎ合っていたのも、はるか昔の夢物語になった。
 かねて私は還暦をすぎたら「阿弥」としてに生きようと心を決めていた。阿弥とは世阿弥、観阿弥の阿弥で、その意味を知るには司馬遼太郎氏の晩年の著作を読んで頂くよりほかはないが、一言でいえば周囲の文化を気にせず、自由に生きようとすることである。私の場合でいえば、歯科という狭い世界の価値観やしがらみを抜けて、自己の価値観の下でできるだけ自由に暮らすということになる。
 さて、それを次第に実行に移し出したとたん、思いがけずまた急に音楽の魅力にとらわれるようになった。女房ともどもパリに遊びに行って、うっかりシャンソンを聴いてまわったのが悪かったのである。これで焼けぼっくいに一遍に火がついてしまったのだ。女房は、先年友人とパリに遊びにいった時のあの街の面白さを忘れかねていて、再度私をそこにひっぱりこもうという魂胆だったらしい。しかし、先にも述べたように、私は高校生の時代からシャンソンにはいれあげていた過去がある。したがって、焼けぼっくいに火がついたには彼女にも多いに責任がある、というものである。
私はまた、(今回は堂々と)ステレオに狂いはじめるようになった。
 しかし、あいにくと、私のこれまでの装置は一切がアナログ用に作られたもので、デジタルには具合よく対応できない。そこで先の「五味氏はまだよかった」という愚痴が口をついてでる次第となるのだが、このデジタルの最新の音を存分に味会うためにはあと幾ら費用がかかるのか見当がつかないのである。
  幸いリスニングルームはあるものの、メイン・アンプ一つでン百万円などというカタログを見ると、分不相応な昔の狐がまたぞろこの身にとりつきそうである。このままではとても平穏に暮らすという生活はできそうもない。
 幸い、患者さんからは、「先生、私より先に死んだらいやだからね。私の面倒は最後まで見ておくれよ」などといわれる事が多く、開業医としてはもう何時死んでも悔いはないとは思っているものの、大編成のあのウィーン・フィルの颯々たる弦のユニゾンがスピーカーから鮮烈に出てくるようになるまでは、どうにも死ぬにも死に切れないという思いも残っている。
 晩酌で酔っぱらっていい気持ちになると、ついつい癖で、昔習った「冬の旅」のあれこれの曲が口から出るのだが、そうなると娘などは「またガマ蛙が唸ってるぅ」などとこき下ろし、容赦なく私から酒瓶をとりあげる。何時になったら豁然と悟りがひらけて静かで上品な翁になれるのだろうか。女房にいわせると「ま、当分無理でしょうね」ということで、くる日もくる日も受付役の彼女に追い立てられ、たった一人で慌ただしく働いている。こんな身にも、古希は遠慮なく迫ってくる。
      (初出・群馬大学大学院医学系研究科顎口腔科学同門会々誌第9号・2004年5月)