「反原発異論」という本がある。3・11の福島の原発事故をきっかけに、急速に日本中にたかまった「反原発」という世論の愚を指摘してみせたと謳われた本である。
 ある評論家によれば、その著者の吉本隆明氏は、わが国の戦後最大の思想家ということになるらしいが、彼のどこがそんなに偉いのか私にはさっぱりわからない。そこで、ものは試しと本書を読んでみたのであるが、何ともくだらない本である。物書きという商売は多少とも恥さらしでないとやっていけないものらしいが、それにしてもひどすぎる。以下、その理由を述べる。
 
 本書の序文を書いている副島隆彦氏にいわせると、吉本氏は「悲劇の革命家」であり、本書は「吉本隆明の最後の闘い」だそうであるが、とんだお笑いぐさである。八七歳で、立つこともできなくなった程衰えたのになお言論が売れ、その上一家そろって物書きとして世に知られている彼のどこが悲劇なのか。副島氏は熱烈な吉本信者であると自称しており、その熱烈ぶりは、さながらオウム信者の尊師に対する如くだから、これはもう、学問や科学についての話ではない。まさに吉本教という新興宗教の尊師と弟子との関係ということになる。そうであるのなら、ただ呆れて見ているよりしようがない性質のものなのだろうが、話題が原発となると、第三者である我々の実生活にも関係し、孫児の代まで影響するという事になるので黙過できない。そこで小生如きがあえて口を挟むということになる。
 
 吉本氏の原子力問題に関する考えは、端的にいえば次のようである。
「(略)素粒子を見つけ出して使い始めた限り、人間はあらゆる智恵を駆使して徹底的に解明してゆかないと大変な事態を招く時代になってしまった。原子力は危険がともないますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人類や人間は本当にアウトですね。(66頁)」
 この言説を見る限りどこにも問題はない。しごく真っ当である。それが原発となると、どうしてか話は急に一変して、
 「その時代の最高の知性が考え、実用化した技術がある。それを単に少しの失敗があったからといってすぐに止めるというのは、近代技術、もっといえば進歩を大事にしていく近代の考えそのものの否定です。(略)頭で考えることは全部やめにして、耕したり植えたり魚を獲ったりという、前近代的生活に戻らざるをえません。」(125頁)ということになり、「『反原発』で猿になる」(134頁)という飛躍した結論になる。その間の理屈の展開は、どう考えても合理性がない。まさしく吉本教という教祖の託宣である。
 彼がいう「その時代の最高の知性」とは誰をさすのか。マンハッタン計画で原爆を開発し、その過程における物理学的発見でノーベル賞を受けた何人かの学者を指すのか、その後代の原発開発の研究の場にあって、原子炉で発生するプルトニウムの恐ろしさに愕然と目覚めて研究者としての出世コースを捨て、あえて町の科学者として反原発の啓蒙に一身を捧げたわが前橋高校の後輩、高木仁三郎のような気高い人物までを含めるのか、思索を商売にする思想家の言としてはきわめてズサンだと言わざるをえない。また、フクシマの大惨事を、「単に少しの失敗」という言葉で済ますというのはどういう神経なのか、小生にはとても理解できない。
 一体、吉本氏は、核分裂を実用化して原爆を開発した米軍のマンハッタン計画についてどこまで勉強したことがあるのか。そのあげく、冷戦下における米ソの核競争で何千発という原水爆ができ、もう原子力グループはこのままではどうにも維持できないという状態となり、その維持のため「平和利用」なる騙し言葉のもとに原発が開発されてきたという経緯をどう評価するのか。
 吉本氏は、地球は太陽の「核融合」によるエネルギーの恩恵を受けて生きているのだから、この地上でも核融合の研究をするのは当然と云っているが、その言明の背後には、核融合で起こる「水爆」の爆発実験すらここの地上で行うのは当然という見解がチラチラする。問題となる核のゴミなどはロケットに乗せて宇宙の彼方に飛ばしてしまえばいいとまで言う。反体制を売り物にしてきたという思想家なる者の思索の末路はこんな哀れなものなのか。
吉本氏の言説には、どこにも高木仁三郎の著作を読んだ形跡がない。そんな者があえて「反原発」に対する「異論」を広言して世を騒がせる。老害もここまでくると醜の極みというものになるが、お互い戒めたいものだ。いい年寄りになるというのもこれで中々むつかしいものである。